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2025年4月20日の日記

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二次創作SSを書くことにした。理由は「書きたいから」だ。文字を書くことには語り得ない魅力があるし(それを語るのが文学だろ)、紙とペンさえあれば「作りたい」という人間の根幹的な欲求を満たしてくれる。文明が進むにつれて絵画や音楽の生産に必要な道具は複雑で高価になったが、文章はずっと一定の水準を維持している。――あるいはそれはいつの時代も「書く」という行為の水準を維持することに努力が払われてきたからであって、絵画や音楽と比べるのは恣意的なのかもしれないが、わたしは考古学者ではない。

、その実筆の調子はどうなのかというと、あまり芳しくない。句読点のバランスや細かい言い回しを気にする性分なので、いちど書いた文章を何度も修正することにばかり時間を取られている。例えば『「送っていきますよ」という言葉は、もう幾度となく繰り返されていた』を『「送っていきますよ」という言葉は、もはや既定の事実を確認するだけの虚辞と化していた』と書きなおしたり、あるいは『精巧な人形のように白く細い手が、俺の手を包む』を『精巧な人形のように白く繊細な手が俺の手を包む』と書きなおしたりといった具合だ。一回ざっと書いてから細かい部分を詰めていく書き方自体はいいのだが、どうにも「ざっと書く」の部分がなかなかできない。「描きたい場面や言わせたいセリフばかり先行して、そのお膳立てがうまくできない」という、初心者にありがちな悩みだ。自分が初心者であるという事実を俯瞰したところで、それ以上のなにかが得られるわけではないのだが。

一般に過去を振り返るのは無意味だとされているが[誰によって?]、アホほど痛いSSを書いていた中学生の頃は本当になにも怖くなかったのだろうと思う。文章の出来はアホほど悪かったかもしれないが、少なくとも書き終える根性はあった。またアホほど痛いSSを書くつもりはないが、いまのわたしはその根性を必要としている。

ところで、篠澤広さんとPのSSを書いているうちに、二次創作SSの様式は一次創作(便宜上、ここからは「オリジナル作品」と呼ぶ)のそれとは異なることがわかってきた。たとえばキャラクターの導入が代表的な例だ。オリジナル作品では「高めの位置で結ったブロンド」とか「青色の瞳」とかいったキャラクターの外見的特徴を読者に説明してやる必要がある一方、二次創作SSでは読者が主題となるキャラクターに精通していると措定できるし、そのうえでキャラクターの容姿に言及する自由も持っている。オリジナル作品では義務だったキャラクターの説明を、二次創作SSではいつでも使える切り札としてデッキに忍ばせることができるわけだ。さきほど書いた『精巧な人形のように白く繊細な手』などがそれにあたる。

もっと抽象的なレイヤーの話をすると、二次創作SSは物語の構成からして特殊だ。原作の設定にフリーライドしている都合、起承転結や序破急といった古典的な構成をそっくりそのままは適用できないのだ。たとえば「わたし、橘いおねはどこにでもいる普通の女子高生!」というセリフが二次創作SSに出現したら当然「そんなの分かっとるわい」と突っ込まれるだろうし、物語の中盤でキャラクターが互いについての理解を深めあうシーンを入れることもできない。もちろん原作というフレームワークは水平にスケールするためにあるわけではないし、われわれもそれを承知で「原作をどこまで垂直にスケールできるか」という課題に挑戦しているのだが、物語の構成を考えるうえで一般的な執筆論を頼れないのはやや困る。

執筆環境を改善すれば出力レートも改善するのではないか、という期待を込めてTyporaを買ったり、さらにはwriterDeckを自作してさえみたのだが、結果は「執筆に集中している」という状態と「アイデアが次々出てくる」という状態が可分であることが判明しただけだった。それはそれとしてTyporaはいいソフトウェアだ(Windows, Mac, Linuxのすべてで動作し、ARMアーキテクチャのCPUもサポートしている!)。

上の段落まで書いてから1か月が過ぎ、3日で100行くらいの進捗を出したり執筆環境をVSCodeに戻したりといった変遷がありました。Typoraには特に不満はなかったんだけど、小説執筆向けのVSCode拡張機能「novel-writer」を発見したことで「すべて」が解決して使わなくなっちゃった。ただこれはわたしがブログのソースコードとコンテンツを同時に編集するような希少種ゆえの話なので、一般の作家やWebライターの方にはTyporaをおすすめします。

何人かの文筆家のフォロワーさんに添削を頼んで「いまの方向性を伸ばすならこうするといいよ~」とか「文の内容を充実させるにはこう書くといいよ~」とかのアドバイスをもらったことで、作品の内容もだいぶマシになってきました。「プロットはこのくらいの温度感と粒度がいいよ~」というアドバイスは特に助かりました。作品の公開時には改めて謝辞を述べるつもりですが、ここでもお礼を申し上げます。

さらに上の段落まで書いてから2週間が過ぎ、初期の構想にはなかった章を2つ追加したりといった変遷がありました。これいつになったら完成するんですかね?

久しぶりに書店に行って本を4冊買ったら8000円くらい消えてたまげた。文庫本以外の書籍ってけっこう高いのね……。買ったのは以下の4冊。

  • アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』(上、下)
  • 品田遊『納税、のち、ヘラクレスメス のべつ考える日々』
  • 鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』

1冊目と2冊目はダ・ヴィンチ・恐山さんが動画で紹介していたから、3冊目はダ・ヴィンチ・恐山さんの著書だから買った。普段のわたしならレジの店員さんに「こいつダ・ヴィンチ・恐山の大ファンかよ」と思われるのが嫌でこういう買い方はしないところなんだけど、その日は「そんな考えに負けるわけにはいかん」という謎の強気さがあったのでまとめてレジに持っていった。そのあと『納税、のち……』を読んでいたら似たような話がありオワとなった。わたしは品田遊先生のそういうところが好きです。

4冊目にはやや特殊な事情がある。そもそもこの本は芥川賞受賞作品なのだが、実はわたし自身が著者と同郷の身でもあるのだ。そのためニュースでも一度目にしていたうえ、書店に行ったら店頭に平積みされており思わず手に取ったという次第だ。

『罪と罰』を読み進めている。1年ほど前に上巻を読破して以来放置していたので最初から読み直しているのだが、自分でも文章を書くようになってから改めて読んだらおもしろすぎてビビった。創作全般に共通する基礎原則として「自分でも作るようになると、審美眼の解像度が上がる」というものがあるのだが、ドストエフスキーはちょっと超えてきちゃっている。そら売れるよな。この調子で巨匠とされる作家のみなさんの作品をドシドシ読破していきたい。

転科先での新生活が始まり「ちょっといい暮らしをするぞ」というモチベがかつてない高まりを見せているので、スケジュール管理のついでに日記をつけることにした。これは(わたしにしては珍しく)かなりうまくいっており、なんと10日連続で日記をつけている。内容はだいたいこんな感じだ。

  • やった
    • 執筆(進捗は少なめですが……)
    • 健康診断
  • 思った
    • 陰鬱な内容の広P(P広)SSを集めて合同誌にするのはどうか
      • 学園を卒業してプロになってから数年後のある日に突然うつ病になってしまったPと、Pのためにアイドルを引退する広とかいかがでしょうか(怖……)

わたしはこれが日記と呼べるのかを決める立場にはないが、なにも書かないまま忘却だけの日々を送るよりはいいだろう。それはそれとして感情が薄すぎて普通に日常生活を送っていてもすべての事象に「了解です」としか思っていないため、読み返しがいのあることが書けないという問題が立ちはだかるわけですが……。

Xを見ていたらTLで希死念慮を叫んでいるアカウントがおり、反射的に「殺すぞ……」と思ってしまった。需要と供給だ。誓って言っておくが、わたしはまだ人を殺したことはない。

それでは。