きみはどこにいる
2024年3月10日の日記
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昨年末に最愛のフォロワーが失踪して2か月余りが過ぎた。今までにも数か月単位でSNS上から姿を消したことはあったけど、今回に限っては個人サイトの投稿すら更新されないので安否が一切わからなくて本当に心配しています。どこかで無事にいるならそれでいいのですが……
過去って甘い毒すぎる。名も姿も変えて逃げるように故郷を抜け出したわたしだけど、いまでもあの場所に夢を見るのをやめられずにいます。怖い記憶がたくさんあるはずなのに、その山に埋もれた幸せな記憶の小さな光がわたしを救ってくれるんじゃないかと思ってしまう。逃げ出した先での細々とした平穏な暮らしより、あの極彩色のネオンサインと暴力的な喧噪の中に生きていた日々のほうが楽しかったんじゃないかと疑ってしまう。そんなのは脳が見せる幻影にすぎず、騙されて歩み寄れば再びすべてを失うだけなのに。消えたフォロワーの席は空けておいたほうがいい。
2月ってなんかしてたか?と思っていろいろ見返したら何もしてなくてワロタ。でもMeta Quest 3を買ったのはよかったです。まあ2000時間使ったOculus Quest 2と比べたらなんでも良いだろというのはその通りなんですが、とにかく薄くて軽くて高画質なので初めてQuest2を被った時と同じくらい没入感の進化があってたまげました。価格はQuest2の倍近いので手放しにおすすめはできませんが、毎日5時間くらいVRChatに入り浸る予定のあるオタクのみなさんは買うといいかもしれません。
自己に言及していくか。わたしはわたしの創造物であり、被造物なんだよな。「橘いおね」はわたし自身であって、わたしが生み出した理想の存在でもある。本当のわたしは橘いおねではないけど、橘いおねの実装はわたしにしかできない。橘いおねというインターフェースを通してでなければ誰もわたしのもとに来ることはできないし、わたしも誰のもとへも行くことはできない。そういうことを考えているうちにわれわれの境界線は曖昧になって、「橘いおねならこうするだろう」と自らの思想や発言を強制し、自らに強制されるようになってきた。インターネット上に固定された自己を持つ人間はみんなこうなのかもしれないけれど、最近はまるで、そうした振る舞いをする自分を遠くから眺めているようだ。
いくらそんなことを書いても、結局わたしは自己の定義を他人に依存するラベリング理論の権化みたいな存在だというのが真実なんですよね。他人からよく評価されることにしか関心がなく、他人から見えない行いに意味を見出せない。何を生み出しても、それが社会的に意味のある価値でない限り何もないのと同じだと感じてしまう。自らもまた自らの作品 なのだとしたら、他人からよく評価してもらえなくなったときには存在する意味もなくなってしまうんじゃないかと怯えている。わたしが社会的に意味のある価値を創出できる能力を持っているのはこの異常な色彩と戦うためなのかもしれないし、あるいはこの能力が異常な色彩を生み出しているのかもしれない。
以前より文才が衰えてきているのを感じるな。かつては文学賞を総なめするような文筆家だったというわけではないけど、このサイトの誕生以降に書かれた日記は後から読み返したときに「わたしはどうしてこんな文章を……」と反省するような内容のものがままあるといった状況です。最近は「読点の数を減らして一文を短くするといい」みたいな作文のTipsを意識することによって改善しつつあるものの、それはそれとして苦しみの量が足りないからいい文が書けないんですよね(美しいものは苦しみから生まれるので)。
ここ数年のうちに誕生したテキストベースの個人サイトのリンク集を作ろうかな♪フォロワーが運営しているサイトから始めて自薦・他薦問わずサイトの情報を募集し、最強の電子庭園ポータルサイトに育てていけたらいいですね。人の庭を見るのが趣味なので……
こんなもんか。昔は一度の投稿で平然と2000文字くらい書いてたんだけど、いつの間にか話題が続かないようになってきたな。毎年この時期は精神がバラバラになってしまうので、作文どころではないということなのかもしれん。みなさんも音楽を聴いたりゲームをしたりして、精神をひとつに保ってくださいね。